那須集落
現在、那須集落の住人は4件、6人となっています。
那須は木地師の里として漆器生産が盛んになりました。豊富な木材をろくろを使った挽き物で碗やお盆が生産されていました。
明治33年、島根県から移住してきた石田富次氏から木地及び漆塗りの技術を習い、昭和最盛期には約50戸のうち8割が従事していました。この石田氏の功績を称え、明治41年に石碑が建立されました。もともとは那須古道の途中に建てられていましたが、昭和38年に那須小学校(現 那須ギャラリー)横に移設されました。
また那須は林業の里でもありました。明治22年頃から西に向かって延長されていた山陽本線の鉄道工事に伴う枕木で木材(栗材)の需要は急激に高まり、昭和初期にかけての電信柱の需要まで山林景気は長く続き、那須の里にも多いときには50戸200人以上の人がいたそうです。
近年、電信柱はコンクリートに変わり、海外からは安い輸入材が入り、林業は儲からないと言われるようになってしまいました。
昭和38年の38豪雪を機に里を離れる人が増え、現在「限界集落」と言われていますが、里を離れた人も度々自宅に戻り手入れをされています。
里を離れる際には家を崩して植林される集落が多いなか、以前と変わらない集落の姿を残した那須集落は、日本の山里の原風景といえる姿を現在も残しています。
那須古道
昭和14年完成の立岩ダム建設にあわせ県道が整備され、現在の川沿いの道が整備される前、那須古道は那須で作られた椀や木材を戸河内に運ぶ生活道でした。
那須集落には小学校までしか無かったため、地元の子供たちは中学に上がるとこの道を通って戸河内の中学校に通っていました。
この道の歴史は古く、文政8年(1825年)に編纂された広島藩の地誌「芸藩通志」戸河内村絵図に那須古道が描かれています。
道は崖に張り付くように付けられ、高さ5mを超える石垣や炭焼き跡、石垣のつづら折れなど、井仁の棚田 広島城 錦帯橋の橋脚などを手掛けた石積みの名工集団「山県者」が手掛けた、文化遺産として十分価値がある遺構が多く残っています。
この道は生活道としてだけでなく、安芸太田の一大産業であった「たたら製鉄」で大量に必要とされた木炭や、枕木・電信柱となる木材を運ぶ産業道路でした。
那須隠れ滝(三ッ滝)
須川の上流、ウラオレ谷の最上部に、幾重にも連なる滝があります。
そこに至る道は無く、沢登り愛好者など一部の人にのみ「三ッ滝」の名前で知られていました。
昨年(令和2年)、那須~十方山の登山道から分岐する形で新たな道が整備され、沢登りの特殊な装備がなくともアクセスすることができるようになりました。
通常の滝の見学ルートは滝つぼから見上げるだけの道が多いのですが、この「那須の隠れ滝」は滝に沿うよに道がつけられ、最上部まで遡って滝を眺めることができます。
滝の周辺は広葉樹林なので、春は新緑・秋は紅葉に包まれた滝の景観を見ることができます。
滝の最上部から藤十郎山頂に向けても新しい登山道がつけられたため、滝を経由して十方山に至る見どころの多い登山ルートとなっています。